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物事のやり方は一つではない -- Perlな人
道徳教育としては (スコア:-1, フレームのもと)
気を利かせた母親が子供がいない時間帯だけ冷蔵庫に入れてたとかそんなオチでしょうか。
いい子にしているとプレゼントをくれるサンタクロースみたいなもんですよね。
# 一方でFBでの大人たちのコメント欄が怖すぎる。みなさんネタですよね?ね?
Re:道徳教育としては (スコア:2)
「ありがとう」と書いた紙の上に置いた桃が先に腐れば容易に否定されてしまう。
そして、まともな科学教育を受けた人間であれば、そのようなことが当たり前におこることはすぐわかる。
容易に否定されうる説というのは知識や理解としてほとんど意味が無い、というのが、これが教育として適切でない理由のひとつだ。
また、容易に否定されうる説を繰り返す指導者というのは、当然すぐに信頼を失う。
子供だって「あの先生はデタラメばかり言う」とすぐに気づく。
信頼を失った指導者による指導は教育として機能せず、教育者としては役に立たない。
サンタクロースの例については、これは道徳教育ではない。
これはクリスマスの夜にしか適用できないからだ。「いい子」にすべきなのはクリスマスの日だけではない。
これを教育として認識している親はほとんどいないだろう。子供をいい子にさせる、単なるその場凌ぎの口実にすぎない。
嘘をつき続けると信用をなくすというオオカミ少年のような寓話は、道徳教育の材料として役に立つ。
寓話は事実ではないが、そこに示される過程自体は論理的に妥当なものだからだ。
それに対し、件の「実験」は言葉が果物の鮮度に影響する理由が存在せず、論理的に妥当ではない。
論理的に妥当でない主張が認められるような教育は、でたらめな主張という倫理に反する行いを認めることにもつながるという矛盾をはらむ。
たとえどんなに結論が正しくとも、その過程が正しくなければそれは道徳教育とはいえない。
相変わらず疑似科学ネタの人気はすごいね。
ピュアオーディオなんかもそうだけど、その人たちの思考能力、判断力、科学リテラシーの程度がなにより露骨に現れるからかもしれない。
誰が正しく誰が間違っているという絶対的なものがない政治や倫理と違って、
科学はある程度の科学リテラシーがあれば「間違っている」と明らかに断言でき、
結論が下せないときにははっきりと「わからない」と答えることもできる。
それが科学のいいところなのかもしれない。