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多数決で決まる経典って、それは科学と呼ぶんじゃないかと。努力すれば、という条件付きですが、全ての人が理解できるものが科学で、特定の人にしか見えない、理解できないものが芸術とか宗教だと思ってた。
検証可能なものが科学で、不可能なものは哲学だよ。
だから、宇宙論の一部はいまだ哲学のまま。宗教も検証不可能であるうちは哲学のまま。
まぁ、おおざっぱな分け方だけどね…。
「検証可能」は大事な一要素だけど、必ずしも満たすべき条件ではなく、必須なのは「蓋然性」ですよ。おおむねその話で問題ないなら、ひとまずそれを土台に前に進む、というものです。
んで蓋然性は「その道の専門家ならだいたい納得してくれる」であって、「万人が(がんばれば)理解できる」ではありません。政治でも科学でも宗教でも同様なんですけど、高度な話はその土俵まで上がれるだけの能力と蓄積あってこそであり、万人(もしくは平均的なヒト)を基準にしちゃだめです。専門家がポカしないっつってるんじゃないですよ。専門家レベルになれるのが全人類の中の一握りしかいないって分野もある、ってだけのお話。
その場合、科学、宗教および哲学を分けるものは何ですか?
宗教に関していえば、中心となる教義(ドグマ)があり、それに関する検証性および蓋然性を必要としないところでしょうか。(追求「しなくてもいい」のであって禁止しているとは限らないが)
科学の方は(個人レベルではドグマに囚われるのもアリだと思ってますが全体としては)中心教義であろうと蓋然性を問われることになる、かと。#んで人間原理あたりで棚に上げる。
哲学の方は、私が不勉強でちょっと線引きは語れません。強いて言えば、宗教や科学を含むより大きな概念で(科学は哲学に含まれるごく一部で)、測定や記録されない部分も含めて”思考可能”であることのみを頼りに進むもの、かなぁ。
概ね納得できる説明です。
が、であれば、#3420276 [srad.jp]の説明は、不適切と言うか、不親切じゃないですかね。科学と宗教(および哲学)の違いが問題になっている文脈で、検証可能性はまさに指摘すべき違いである、と述べるべきでは。
誠におっしゃるとおりで、私の不徳、不手際です。「検証可能なものが科学」に一言言いた過ぎて視野狭窄に陥っておりました。ご指摘感謝です。
その理屈だと「科学者が納得する」基準が明らかでないし、専門家(と狂人)と素人を区別する基準も必要になってくる
科学とそうでないものを分かつものは何か→蓋然性である→蓋然性とは何か→科学者の納得である→科学者は何に納得するか→蓋然性である(ループ突入)
であって、実は宗教だって自称専門家は納得している(理由は「教祖がそう言っているから」だったりするが)
あと、科学的観測において観測された現象に見られる「蓋然性」と、科学者集団の社会学的現象(多数の納得?)に見られる「蓋然性」は区別しないと話が混乱すると思う
ここは私の書き方があまりに悪かったです。「蓋然性の定義とは、科学者が納得すること」というつもりではなかったんです。あえて書き直すなら「蓋然性は万人がそれぞれ判断するものではなく、専門家がその専門性をもって判断するもの」くらいの意味です。
蓋然性の定義の話をするなら…蓋然性とは検証可能性や証拠の有無(強さ)、論理的な矛盾のなさなどを考慮した「そうである可能性の高さ」、といったところでしょうか。
言いたかったことは2つ。検証可能性を必須としたり、確実な動かぬ証拠が必要とか言ったとたん、科学のかなりの部分はあやふやになっちゃうということ。「もっともらしさ」「確実さ」を万人が”がんばれば”理解できる、というほど専門分野はやさしくない、ということ。(後者は別に科学に限らないですね。宗教だって同様)
#宇宙論を「検証可能性ないから科学じゃない」って言ってくる奴の相手はめんどい、と言い換えても(よくない
専門家になることはやさしいこと、とは考えていませんが、それは専門家が新しいことを発見する人だからであって、既に発見された物については、万人(平均的な人間)でも”がんばれば”理解できると思います。
どうかなあ 安易な解決法としては、そのような検証可能性あるいは反証可能性を欠いたものについては「未科学」というカテゴリーを与えてやればいいだけの話であって、あとは「未科学」についての個々人の態度を問題にすればいいんじゃないかと思うんだよね ある人は夢物語だと思うだろうし別の人間は意義を認めるだろう
あるいは、科学の範囲を「反証が可能だとするとそれはどのようにすれば可能か、が検討できる」とまで範囲を広げる変則的なポパー主義を取れば(これは現役の研究者の賛同を得られると思う 彼らは検証だけでなく、検証方法の開発にも頭を悩ましているのだから)
>
元コメとは別人です。例えば量子力学の成立過程について、いつ未科学から科学に変わったと思いますか?反証可能性という意味では、量子力学は相対論と矛盾しているため、量子力学は科学では無いと思いますか?また観測技術が不完全である以上、大統一理論のようなものができたとしても、反証可能性は永久に残ります。
蓋然性というと、すごく曖昧に聞こえますが、査読付きの論文を発表した時点で、ある程度の確からしさがあり、さらに発表後に、何度も検証され、論文の引用回数のような形で、「そうである可能性が高く」なっていきます。突然、素晴らしい理論が作られ、みんなが一瞬にして納得するわけではなく、科学とは徐々に合意形成されていく行為全体を表しているのではないでしょうか?我々が神でない以上、何が科学で、何が科学でないか、という境界はどうしても曖昧なものとなってしまうと思います。
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あつくて寝られない時はhackしろ! 386BSD(98)はそうやってつくられましたよ? -- あるハッカー
科学に収束しそう (スコア:0)
多数決で決まる経典って、それは科学と呼ぶんじゃないかと。
努力すれば、という条件付きですが、全ての人が理解できるものが科学で、特定の人にしか見えない、理解できないものが芸術とか宗教だと思ってた。
Re: (スコア:0)
検証可能なものが科学で、不可能なものは哲学だよ。
だから、宇宙論の一部はいまだ哲学のまま。
宗教も検証不可能であるうちは哲学のまま。
まぁ、おおざっぱな分け方だけどね…。
Re:科学に収束しそう (スコア:0)
「検証可能」は大事な一要素だけど、必ずしも満たすべき条件ではなく、必須なのは「蓋然性」ですよ。
おおむねその話で問題ないなら、ひとまずそれを土台に前に進む、というものです。
んで蓋然性は「その道の専門家ならだいたい納得してくれる」であって、「万人が(がんばれば)理解できる」ではありません。
政治でも科学でも宗教でも同様なんですけど、高度な話はその土俵まで上がれるだけの能力と蓄積あってこそであり、万人(もしくは平均的なヒト)を基準にしちゃだめです。
専門家がポカしないっつってるんじゃないですよ。
専門家レベルになれるのが全人類の中の一握りしかいないって分野もある、ってだけのお話。
Re:科学に収束しそう (スコア:1)
「検証可能」は大事な一要素だけど、必ずしも満たすべき条件ではなく、必須なのは「蓋然性」ですよ。
おおむねその話で問題ないなら、ひとまずそれを土台に前に進む、というものです。
その場合、科学、宗教および哲学を分けるものは何ですか?
Re: (スコア:0)
宗教に関していえば、中心となる教義(ドグマ)があり、それに関する検証性および蓋然性を必要としないところでしょうか。
(追求「しなくてもいい」のであって禁止しているとは限らないが)
科学の方は(個人レベルではドグマに囚われるのもアリだと思ってますが全体としては)中心教義であろうと蓋然性を問われることになる、かと。
#んで人間原理あたりで棚に上げる。
哲学の方は、私が不勉強でちょっと線引きは語れません。
強いて言えば、宗教や科学を含むより大きな概念で(科学は哲学に含まれるごく一部で)、測定や記録されない部分も含めて”思考可能”であることのみを頼りに進むもの、かなぁ。
Re:科学に収束しそう (スコア:1)
概ね納得できる説明です。
が、であれば、#3420276 [srad.jp]の説明は、不適切と言うか、不親切じゃないですかね。
科学と宗教(および哲学)の違いが問題になっている文脈で、検証可能性はまさに指摘すべき違いである、と述べるべきでは。
Re: (スコア:0)
誠におっしゃるとおりで、私の不徳、不手際です。
「検証可能なものが科学」に一言言いた過ぎて視野狭窄に陥っておりました。
ご指摘感謝です。
Re: (スコア:0)
その理屈だと「科学者が納得する」基準が明らかでないし、専門家(と狂人)と素人を区別する基準も必要になってくる
科学とそうでないものを分かつものは何か→蓋然性である→蓋然性とは何か→科学者の納得である→科学者は何に納得するか→蓋然性である(ループ突入)
であって、実は宗教だって自称専門家は納得している(理由は「教祖がそう言っているから」だったりするが)
あと、科学的観測において観測された現象に見られる「蓋然性」と、科学者集団の社会学的現象(多数の納得?)に見られる「蓋然性」は区別しないと話が混乱すると思う
Re: (スコア:0)
ここは私の書き方があまりに悪かったです。
「蓋然性の定義とは、科学者が納得すること」というつもりではなかったんです。
あえて書き直すなら「蓋然性は万人がそれぞれ判断するものではなく、専門家がその専門性をもって判断するもの」くらいの意味です。
蓋然性の定義の話をするなら…
蓋然性とは検証可能性や証拠の有無(強さ)、論理的な矛盾のなさなどを考慮した「そうである可能性の高さ」、といったところでしょうか。
言いたかったことは2つ。
検証可能性を必須としたり、確実な動かぬ証拠が必要とか言ったとたん、科学のかなりの部分はあやふやになっちゃうということ。
「もっともらしさ」「確実さ」を万人が”がんばれば”理解できる、というほど専門分野はやさしくない、ということ。
(後者は別に科学に限らないですね。宗教だって同様)
#宇宙論を「検証可能性ないから科学じゃない」って言ってくる奴の相手はめんどい、と言い換えても(よくない
Re: (スコア:0)
専門家になることはやさしいこと、とは考えていませんが、それは専門家が新しいことを発見する人だからであって、
既に発見された物については、万人(平均的な人間)でも”がんばれば”理解できると思います。
Re: (スコア:0)
どうかなあ 安易な解決法としては、そのような検証可能性あるいは反証可能性を欠いたものについては「未科学」というカテゴリーを与えてやればいいだけの話であって、あとは「未科学」についての個々人の態度を問題にすればいいんじゃないかと思うんだよね ある人は夢物語だと思うだろうし別の人間は意義を認めるだろう
あるいは、科学の範囲を「反証が可能だとするとそれはどのようにすれば可能か、が検討できる」とまで範囲を広げる変則的なポパー主義を取れば(これは現役の研究者の賛同を得られると思う 彼らは検証だけでなく、検証方法の開発にも頭を悩ましているのだから)
>
Re: (スコア:0)
元コメとは別人です。
例えば量子力学の成立過程について、いつ未科学から科学に変わったと思いますか?
反証可能性という意味では、量子力学は相対論と矛盾しているため、量子力学は科学では無いと思いますか?
また観測技術が不完全である以上、大統一理論のようなものができたとしても、反証可能性は永久に残ります。
蓋然性というと、すごく曖昧に聞こえますが、査読付きの論文を発表した時点で、ある程度の確からしさがあり、
さらに発表後に、何度も検証され、論文の引用回数のような形で、「そうである可能性が高く」なっていきます。
突然、素晴らしい理論が作られ、みんなが一瞬にして納得するわけではなく、
科学とは徐々に合意形成されていく行為全体を表しているのではないでしょうか?
我々が神でない以上、何が科学で、何が科学でないか、という境界はどうしても曖昧なものとなってしまうと思います。