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不適切かどうか自分には分からんが、バイクを盗まれた経験がある身としては不愉快な歌詞ではある
#俺のバイクを返してくれ
俺もバイクを盗まれた経験がある身で、15の夜の歌詞は実に不愉快だ。
しかし、不愉快だ、不適切だ、不謹慎だという理由で口をつぐませようとする奴らには反吐が出る。
自作の曲の歌詞に使うのは問題無かろう。しかし公共性の高い媒体で発せられる言葉に制限を加えないことが適切といえるだろうか。論点そこではなく、「どの程度なら許されるべき」の線引きだと思うのだが。
たとえばだけど、「犯罪行為を描いた歌詞」が駄目なら、「犯罪行為を描いたドラマ」はどうなんだろう最後まで見れば犯罪行為を描いた登場人物が罰せられるシーンもあるかもしれないが、世の中のテレビドラマ全てがそうなっているわけではない
では(それこそ問題のCMが流されているのと同じ)公共性の高い媒体で放送される、そういった犯罪モノのドラマなどは制限されるべきだろうか
たとえば必殺仕事人シリーズは明確に主人公側が犯罪者の側面もあるし、或いは現代日本を舞台にしてる以上仮面ライダーとかもやってることは私闘でもあるし何かしらの戦闘行為が絡むドラマであ
自分も、件のバイクの歌詞を是と非のどちらに倒すかの強い拘りは正直ない。盗んだバイクで走り出すことを肯定するような内容を不適切と考える論には一理あるとも思うし、規制ばかり優先して面白味を失い過ぎるのも社会利益に反するという考え方も当然あり得ると思う。#真面目な話これは社会正義に照らすとかなり微妙な歌詞で、尾崎豊の名の庇護がありギリでセーフかというところ#被害経験者がいれば局に文句の1つも飛んでくるのは当然の事象と思われる
しかし例えば、殺人や強盗の類を美化し何のフォローも無いようなもの、極めて反社会的なものとなると、とりわけテレビのような媒体でその内容を流すのは適切ではないと思うし、制限をしない事はどんなに低劣俗悪な内容でもノーチェックで許容するという結論に至る。
そうしないという事はすなわちどこかに線を引くという事で、何かしら制限を設けるのは至極妥当なスタンスだと思うわけである。
ドラマが許されるかについては、その内容に犯罪行為を支持するようなメッセージが含まれているかに依るだろうと思う。
#真面目な話これは社会正義に照らすとかなり微妙な歌詞で、尾崎豊の名の庇護がありギリでセーフかというところ
そうだろうか。件の歌の歌詞は、
盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま暗い夜の帳りの中へ誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に自由になれた気がした 15の夜
となっていて、「暗い夜の帳の中へ」「自由になれた気がした」と、どちらかと言えば「バイクで走り出す」こと自体にネガティブさを感じる。少なくとも「バイクを盗んだ」描写こそあれ、「バイクを盗むこと」を肯定しているようには思えない。あくまで個人の感覚だけどね。
そもそも、上で出てるような(江戸時代も許されてたわけではなく、現代では明確に違法な)悪人の暗殺をしていた「必殺シリーズ」や、主人公が車検を通らないであろうバイクの運用をする道交法違反にはじまり、銃刀法違反や器物損壊を繰り返す「仮面ライダーシリーズ」は、明確に犯罪を肯定していると言わざるを得ない。いや、もちろん上記反論はわざとイジワルな書き方をしたわけで、それらの作品を否定すべきとは思わないけど。それでも、少なくとも尾崎豊の歌詞を否定するならば、明確に犯罪行為も含んだ主人公の行動を、その犯罪に該当する部分も含めて肯定的に描写している作品が受け入れられていることとの整合性をどうつけていくのか。
そこをクリアにしない限り、公序良俗や社会道徳を目的にした規制や線引きをしようとしても、矛盾だらけだったり恣意的なだけのダメな規制にしかならないと思う。
(実写だけでなくアニメとかも含むなら、「one-piece」は主人公が海賊だとか、今度実写にもなる「鋼の錬金術師」みたいに国家転覆やらかすのとか、道徳的にはともかく作中の世界の法的にヤバい主人公なんていくらでもいるし)
どうも本旨を外れた部分にばかり反応されてしまっているようなのだが、皆はこの問題に対し「線引き」を考えずに解決が可能だと思っているのだろうか。
「線引き」を考えずに解決が可能だと思っているのだろうか
線が引けるならな
皆が納得できるレベルの線がない以上、線引きでは解決にならんよ表面的な沈静化程度なら期待できるにせよ本質的な意味での解決は無理だ
引けるならも何も、互いの希望を調停して上手くやっていくのが社会というものだろう。現に今までそうやってきているのであり、それを辞めるならそのメディアは無法地帯と化してしまう。限度を越えれば自主的な規制でなく、管轄省庁の勧告や法的な規制に発展するだけの話で、いずれにしても一定のルールに縛られる現実は普通は回避しようがない。
いかなる規律を破ってでも、国家権力と対峙しようとも、思うままの情報を発信したいのだ、というなら別だが。
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身近な人の偉大さは半減する -- あるアレゲ人
不愉快 (スコア:5, おもしろおかしい)
不適切かどうか自分には分からんが、バイクを盗まれた経験がある身としては不愉快な歌詞ではある
#俺のバイクを返してくれ
Re: (スコア:4, すばらしい洞察)
俺もバイクを盗まれた経験がある身で、15の夜の歌詞は実に不愉快だ。
しかし、不愉快だ、不適切だ、不謹慎だという理由で口をつぐませようとする奴らには反吐が出る。
Re: (スコア:0)
自作の曲の歌詞に使うのは問題無かろう。
しかし公共性の高い媒体で発せられる言葉に制限を加えないことが適切といえるだろうか。
論点そこではなく、「どの程度なら許されるべき」の線引きだと思うのだが。
Re: (スコア:1)
たとえばだけど、「犯罪行為を描いた歌詞」が駄目なら、「犯罪行為を描いたドラマ」はどうなんだろう
最後まで見れば犯罪行為を描いた登場人物が罰せられるシーンもあるかもしれないが、世の中のテレビドラマ全てがそうなっているわけではない
では(それこそ問題のCMが流されているのと同じ)公共性の高い媒体で放送される、そういった犯罪モノのドラマなどは制限されるべきだろうか
たとえば必殺仕事人シリーズは明確に主人公側が犯罪者の側面もあるし、或いは現代日本を舞台にしてる以上仮面ライダーとかもやってることは私闘でもあるし
何かしらの戦闘行為が絡むドラマであ
Re: (スコア:0)
自分も、件のバイクの歌詞を是と非のどちらに倒すかの強い拘りは正直ない。
盗んだバイクで走り出すことを肯定するような内容を不適切と考える論には一理あるとも思うし、
規制ばかり優先して面白味を失い過ぎるのも社会利益に反するという考え方も当然あり得ると思う。
#真面目な話これは社会正義に照らすとかなり微妙な歌詞で、尾崎豊の名の庇護がありギリでセーフかというところ
#被害経験者がいれば局に文句の1つも飛んでくるのは当然の事象と思われる
しかし例えば、殺人や強盗の類を美化し何のフォローも無いようなもの、極めて反社会的なものとなると、
とりわけテレビのような媒体でその内容を流すのは適切ではないと思うし、
制限をしない事はどんなに低劣俗悪な内容でもノーチェックで許容するという結論に至る。
そうしないという事はすなわちどこかに線を引くという事で、何かしら制限を設けるのは至極妥当なスタンスだと思うわけである。
ドラマが許されるかについては、その内容に犯罪行為を支持するようなメッセージが含まれているかに依るだろうと思う。
Re:不愉快 (スコア:1)
そうだろうか。件の歌の歌詞は、
となっていて、「暗い夜の帳の中へ」「自由になれた気がした」と、どちらかと言えば「バイクで走り出す」こと自体にネガティブさを感じる。
少なくとも「バイクを盗んだ」描写こそあれ、「バイクを盗むこと」を肯定しているようには思えない。
あくまで個人の感覚だけどね。
そもそも、上で出てるような(江戸時代も許されてたわけではなく、現代では明確に違法な)悪人の暗殺をしていた「必殺シリーズ」や、主人公が車検を通らないであろうバイクの運用をする道交法違反にはじまり、銃刀法違反や器物損壊を繰り返す「仮面ライダーシリーズ」は、明確に犯罪を肯定していると言わざるを得ない。
いや、もちろん上記反論はわざとイジワルな書き方をしたわけで、それらの作品を否定すべきとは思わないけど。
それでも、少なくとも尾崎豊の歌詞を否定するならば、明確に犯罪行為も含んだ主人公の行動を、その犯罪に該当する部分も含めて肯定的に描写している作品が受け入れられていることとの整合性をどうつけていくのか。
そこをクリアにしない限り、公序良俗や社会道徳を目的にした規制や線引きをしようとしても、矛盾だらけだったり恣意的なだけのダメな規制にしかならないと思う。
(実写だけでなくアニメとかも含むなら、「one-piece」は主人公が海賊だとか、今度実写にもなる「鋼の錬金術師」みたいに国家転覆やらかすのとか、道徳的にはともかく作中の世界の法的にヤバい主人公なんていくらでもいるし)
Re: (スコア:0)
どうも本旨を外れた部分にばかり反応されてしまっているようなのだが、
皆はこの問題に対し「線引き」を考えずに解決が可能だと思っているのだろうか。
Re: (スコア:0)
線が引けるならな
皆が納得できるレベルの線がない以上、線引きでは解決にならんよ
表面的な沈静化程度なら期待できるにせよ本質的な意味での解決は無理だ
Re: (スコア:0)
引けるならも何も、互いの希望を調停して上手くやっていくのが社会というものだろう。
現に今までそうやってきているのであり、それを辞めるならそのメディアは無法地帯と化してしまう。
限度を越えれば自主的な規制でなく、管轄省庁の勧告や法的な規制に発展するだけの話で、
いずれにしても一定のルールに縛られる現実は普通は回避しようがない。
いかなる規律を破ってでも、国家権力と対峙しようとも、思うままの情報を発信したいのだ、というなら別だが。